ワイキキ~といえば、日本で見買えないような褐色の肌をした男たちが気になりますよね。女性からでもなく男性からも(笑)。だってタトゥーを身体中に入れて一見強面なのにとても親切だし、あの人懐っこい笑顔はハワイの人ならではで、頭にどうしても焼きついてしまいますよね。海と彼らのコンビがまさに『ワイキキ』なんですよね。
ところが!今そのワイキキに彼らビーチボーイたちが消えるかもしれない、という危機にさらされているのです。
実は5年に一度、ワイキキの浜でのサーフレッスンやレンタルボードのビジネス権利の許可の更新をしなければならないのですが、今まで(後で説明しますが)ビーチボーイの文化をそのまま継続するビジネス方針で営業されていました。ところが、今回、政府が選んだ会社は、サーフィン関係ではないダイビング会社(Dive Oahu)。
大手のダイビング会社が、代々サーフィンを教えていた2つの会社(Star BeachboysとHawaiian Oceans )に変わり、ワイキキのビジネス権利を獲得したんです。その2つの今まで何十年もワイキキで営業していた子会社に全く相談なしに突然「あなたたちは営業の権利を失いましたので残念ですが立ち退いてください」と。当然、昔からビーチを守っているワイキキのビーチ関係者たちは激怒。ネットなどを通じて反対運動の渦が日々広がっています。
ダイビング会社のオーナーのブライアン ベントン氏は「うちが仕切ると行っても今までのビーチボーイをないがしろにするつもりはありませんよ。きちんと雇用の手続きしてくれれば雇うつもりでいます。ただしユニフォーム着用とドラックテストは義務として行ってもらいますが」
「襟付きのシャツとカーキ色の半ズボンそれに名札まで付けろって?!そんなのは俺たちビーチボーイズのスタイルじゃない」とビーチボーイ三代目のアリカさん。
何をそんなに意固地になっているのかって?大手が仕切ってくれるならそれでいいじゃないの。同じ仕事が出来るんだし。それに保証がよりしっかりしているんじゃない。逆に楽になると思うんだけど。きっとそんな風に考える人も少なくないのでは?
うん、確かに。でも、事情を知らされると「そのまま」にしてあげなければならない理由がわかってしまうんです。以下できるだけわかりやすく説明して見ました。。。まずは「ワイキキビーチボーイとは何者か」というところから。
ワイキキビーチボーイとは、ワイキキでサーフィンを教える人たちのことです。元を辿っていくと1905年に(ワイキキの銅像になっていて3度のオリンピック金メダルを獲得しサーフィンの父と言われている)デュークカハナモクが立ち上げたサーフチーム「Very Lazy Surfers」訳すと「とっても怠け者なサーファーたち」の結成でした。
写真 / ワイキキビーチにある、ご存知デュークカハナモク像
名前だけ聞いてみるとなんだか余裕ある親父たちのサーフィン同好会のように思えますが、実は全くその逆。このクラブに入る為にはまずハワイアンの血を受け継いだ人のみ。でもただ血を引いていればいいというわけではありません。心も体も「海の男」として認められている人でなければ入れなかった。狭き門だったんです。
デュークが立ち上げた意図は実は「消えてゆくハワイアン文化の復活」でした。
元々ハワイアンにとってサーフィンというのはただの道楽ではありませんでした。自然のエネルギーを利用して自然に感謝する機会を与えれくれる行為。ある意味、お祈り的な意味を含んでいました。ところが19世紀の初め頃。カメハメハ大王がなくなってから、白人がハワイの社会を牛耳るようになり「裸同然で波に乗るなんてハレンチで怠け者の象徴みたいなものだ」とサーフィンとフラは中傷されるようになりました。その影響でサーフィンをやるものの人口がどんどん減ってしまったのです。
デュークは(あまり知られていませんが)カメハメハの血を継ぐ人で深く文化を理解されていた人です。卑下されたハワイアン民族のアイデンティティーを静かに訴えるためにこのクラブを創立したのではないか。歴史家の中の見解です。
さて、そのデュークが立ち上げたクラブ。名前を「Hui Nalu 」に改め正式に発表されたのが1911年。選ばれたメンバーは、ワイキキのモアナホテルの近くのハウの木で毎日集合。ホテルのトイレで着替え、海に繰り出し、泳いだりサーフィンしたりカヌーを漕いだりと「海男のスキル」を磨きました。
その海男のクラブが定着した頃に、アラワイ運河が作られワイキキはますます泳ぎやすい浜に代わり、観光客の格好の海水浴場と変わって行きました。デューク自身もオリンピックで活躍すると同時に世界にサーフィンのデモをし、多くの人にサーフィンを伝えました。さらに世界の女性を熱狂させたエルビスプレスリーが映画の中でワイキキサーフィンシーンを見せたり、天才小説家マークトウェンもワイキキを舞台にした小説を書いたりしたため、ワイキキはあっというまに世界的に有名になった。多くの人が押しかけるようになりました。
多くの人が押し寄せると同時に、水難事故も増えました。当時は今のようにライフガード(ライフセーバー)がいなかったため、海をよく知るビーチボーイたちがその役を請け負って人々を水難事故から守ったのです。
「サーフィンしたいんだけど」「いいよ、俺が教えてあげるよ」と自然の流れでビーチボーイたちは観光客にサーフィンを教え「はい、これお礼、とっておいてね」と20ドル程度のお金をお礼に受け取る。それで生活を成り立たせる。それがビーチボーイのライフスタイルとして定着していきました。
「デュークは俺たちに、海のエキスパートとして波に乗る技術を与えるだけでなく「アロハを与える」ことの大切さを教えてくれたんだ。どこの国の人であろうが、どんな肌の色をしてようが、関係なくアロハを与えることを。」(ラビット·カカイの言葉より)
現在ビーチでサーフレッスンを施すワイキキビーチボーイたちの「アロハの心」も薄れていません。私も、家庭環境が悪い子供たちを自分の子供のように金銭面も精神面もサポートしている方たちを、個人的に知っています。物価が高いハワイで生活が苦しいのにもかかわらず1週間に一度、サーフィンをする子供たちを集めて映画に連れて行き夕食をご馳走してくれるビーチボーイもいます。親がワイキキに捨てるようにしておかれていった子供たちを何人も養子にし育てたビーチボーイ(アンティーローリーという女性ですが)もいます。
アロハは与えるもの。
そしてアロハの後にお金が発生するもの。
私自身彼らにそう教えてもらいました。それが、大手の規則で縛られたサーフィンレッスンではお金が先でアロハが後。順番が逆になる恐れがある。そうなるとハワイはハワイでなくなる。ワイキキがワイキキで無くなってしまう。それを皆、恐れているのです。
ふと日本に帰国した時に聞いた近所の酒屋のおばさんの話を思い出しました。昔は立ち飲みに来るお客さんが世間話で花を咲かせる酒屋だったのに、セブンイレブンに変えてしまってから、マニュアルに沿わなくてはならなくなり、お客さんと話しもできなくなった。収入は安定したけどなんだか虚しい気がするとおっしゃってたことを。
「そのままにしておいて」そう願いばかりです。
それではまた次回まで
アロハ
記事: エミコ•コーヘン
ノースショアの宿(ハワイラブカード加盟店)
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