CULTURE

知られざるエディー•アイカウの苦悩

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エディー•アイカウといえばサーフィン界のヒーローです。
前回の記事でも説明した様に、ハワイアンのビックウエイバーかつワイメア初のライフガードで、ホクレア号を助けるために夜の海に飛び込み、この世から姿を消した人。彼を知る人の大半が、きっとその様に彼という人物を理解されていると思います。

でも実は、それだけではないんです。
彼の生い立ちや環境、さらにはハワイの歴史をも調べてみると、彼はサーフィン界や海の世界のヒーローだけではおさまらない。ハワイが抱える様々な問題を背負い、堂々と戦ってきた人だという事がわかってきます。

彼を把握する為には、まず、ハワイの歴史を把握することから始ります。

時は1848年。カメハメハ三世が、グレートマヘレという法律を作りました。理由は、ハワイアンたちの土地を守る為。1778年にキャプテンクックが訪れて以来、白人がどんどん増えて、ハワイアンたちは住む場所までも失いつつあったからです。法律の中で、「ハワイアンたちに土地を譲るから欲しい人は申し出なさい」とうたったのですが、「土地は空や海と一緒で、人の物になるわけがない」と理解していたハワイアンたちは、面に出てこなかった。その時にいたハワイアンたちのたったの1%の人だけが、その事情を理解し、土地を受け取りました。結果、白人たちが土地を買い占め、商用の目的の農業が開始され(ドールパイナップル畑やサトウキビ畑)知らず知らずのうちに自分たちの食料を作る畑や魚を取るための川をハワイアンたちは失ってしまいました。彼らに残された道は、白人たちの労働者/奴隷になること。厳しい労働の結果だけでなく、それまで外部の人と接触がなかった彼らは、免疫力の少なかった為、白人が持ってきた疫病にかかり、次々と亡くなりました。さらに王国の政府までも白人たちにハワイアン人口は激減してしまいました。力を付けた白人たち(業者の人たち)は、さらに王国までを奪う計画を建てたのです。カラカウア王に銃を突きつけ、法律を返させただけでなく、次に指導者に就任したリリウオカラニ女王の座をクーデターを起こすことで、辞任させました。ハワイアン側が助けを求めたアメリカ側は、最初は見方してくれていたのに、スペインとの戦争が激しくなると、真珠湾を軍事使用する為に必要となり、まるで騙す様に、王国を奪ってしまったのです!

その後、現在に至るまで、ハワイアンたちのスタンスはそれぞれ違います。上記の様な話しを自分の肝に落していきるハワイアン。あまり深い歴史話には(わざと)触れず、アメリカ人として生きていくハワイアン。エディー•アイカウの家庭はどうだったかといえば、完全に前者の方。経緯を説明します。

以下の写真はアイカウファミリー

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エディーが産まれたのは1946年のこと。サトウキビ畑の労働者として中国から移民してきた祖先とハワイアンの祖先の血を引く5人の兄弟と、パウオアバーリーにある中国人墓地に住んでいました。父親が埋葬された骨を掘り出し、墓に移動させるという仕事をしていたからです。墓地に住む彼らの楽しみは海。仕事や学業以外は海。家族みんなで、ダイビングをしたり、フィッシングをしたり、パドルボードをしたり、ほぼ毎日、海に行くという生活をしていました。

そのうちお兄さんのクライデ(アイカウ)とエディーは本格的にサーフィンを始める様になると、若手サーファーを世話する環境問題と先住民問題に関わる活動家ジョーン•ケリーに目を付けられました。ケリーは若手ハワイアンサーファーの芽を伸ばすがごとく、ノースショアの究極な波が立つポイントに彼らを連れ出す人。同時にビーチに向かう間、若手ハワイアンサーファーたちに、教科書では語られていない私が上記した様なハワイアンの歴史のレッスンをし続けました。エディーは徐々に自分の為だけではなく「過去のハワイアンの苦悩」をお腹の底に抱えて生きる様になったのです。

エディーがワイメアでビックウエイバーとして有名になった頃、オージー(オーストラリア人)が、ハワイに来る様になりました。優雅に波と合わせたライディングをするハワイアンとは違い、破壊的なサーフィンをするオージーたちは、行なわれる大会のほぼ全部の上位を奪っていきました。まるで自分の土地の様に振る舞うオージーたち。そんな彼らにやられ続けるハワイアンの若手たちは、ケリーに歴史レッスンのフィルターを通して自分たちを「白人に土地を奪われた過去のハワイアンたち」と同じだと、思う様になってしまった。様々な問題が生じる様になりました。問題が起きるたびに、「ハワイアンたちは野蛮だ」と新聞やニュースで叩かれる。本土の新聞ではノースショアの過激派ハワイアンサーファーたちを「ビーチのテロリスト」と形容しました。

写真:エディー1969年5月

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エディーの心情はもちろんハワイアン側に傾いていたものの、争いを嫌い、オージーたちが泊まるホテルに自ら足を運び、彼らに「サーフィンがいかにハワイアンたちに神聖なものなのか」という話しから、例のハワイの歴史などのレッスンを施し、少しでもハワイアンの事を理解してもらおうと努力をしている矢先の1977年。エディーはデュークカハナモククラシックで優勝。彼の優勝は彼だけのものではなく、過去から繋がる全ハワイアンの誇りを取り戻すが為のもの」。1977年にホクレア号の乗務員になり、夜の海へ消えて行った彼は31歳。短い命でしたが、彼の生き様は、ハワイアンだけでなく多くの人たちに大切なメッセージを残したのです。

エディー•アイカウメモリアルコンテストは、消えてはいけないもの。今回と前回の記事で、理解していただけたかと思います。

記事: エミコ•コーヘン
ノースショアの宿(ハワイラブカード加盟店)
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