CULTURE

WAIKIKI歴史探訪[その1]
キングカラカウア

ブログ138Kalakaua-2

「ハワイをもっと知りたい」

「次回のハワイは違う経験をしたい」

そんな方たちのために、今日から10回に分けて歴史探訪にお連れします。実際にハワイにいらして歩きながらがあるいはグーグルマップを使って想像の中で歩きながら(笑)聞いていただくこのお話は、ネイティヴハワイアンが営むツアーの通訳として個人的に渡された資料と、過去に私が勉強したこと、さらにそこに、個人的な意見をふりかけのごとくふりかけてまとめたものです。他にはないわかりやすく楽しい記事になることを願い、始めます。。。

では、お楽しみくださいませ。

その1は、カラカウア大王。

銅像の場所: 2050Kalakaua Ave, Honolulu, HI 96815

(クヒオ通りとカラカウア通りの分岐点)

24時間観覧可

観覧費:無料

ブログ138Kalakaua-1

フラをされている方はたぶんご存知でしょう。そうそう、あの歌「カヴィカ」のモチーフになっている王様です。フラの祭典、メリーモナークを始めた方としても知られた王様です。今の感覚で言えば、メリーモナークを作った人と言えば、ただ野球のオールスター戦を作った人、ふむふむお金もちなんだね、くらいにしか思わないかもしれませんが、実はそ深い意味が隠れているんです。

言ってみれば、当時ハワイ文化をせき止めていたシガラミをほどき、今の世までフラが流れるようにしてくれた。そういうことをなさった方なのです。このことを理解するためには、過去の話を知らなければなりません。

カメハメハ大王が1810年にハワイを統一し、その後、カメハメハ王朝が62年続きます。しかしすでにその頃は、西洋の文化が入ってきていました。時代の流れを察していた最後のカメハメハ王朝の王(カメハメハロット)は、「自分が死んだ後次の王は世界に立ち向かえる力のある王を選ばなけれなならない、だから選挙で決めるように」と言葉を残され他界。こうして、選挙制度がハワイ王国でも用いられるようになったのです。

選挙で選ばれたのが、ルナリロ。王朝は終わったものの、カメハメハ大王の血を引く彼は、大王の時のような王国をもう一度作ろうと努力しました。(ほら言ったとおり)時代は既に変わっていたわkです。他所からのビジネスマンたちが力をつけていたハワイ。元に戻そうとするのはやはり無理。風当たりが強すぎたのでしょう。王は、就任してたったの一年で病死。39歳で亡くなられました。

そして次に選ばれたのがこのカラカウア王です。正式な名前はコロネル·ラ·デービッド·ラ·カラカウアです。カラカウアの名前の意味は「決戦の日」。ちょうど彼が生まれた日、フランスがハワイのローマカソリック教会を威圧するために攻撃してきた日。だから、そのような名前がつけられたのです。

ここまで読むと王がどんな時代に生きたのか、想像がつくと思います。ちょうどハワイ以外でも理不尽なことがあちこちで起きていた時代です。世界史で習いましたよね、イギリスとフランスの首相が地図を見ながら、「このインドなる場所はうちのものにしますが、アフリカのこの場所はあなたの国にしましょう」などと決めていたあの時代。なにせハワイという太陽と水がたっぷりある土地では農作物はたくさんなるし、太平洋のど真ん中にある島だから、船を寄港させるのもいいし、軍を置くのにも都合がいい。いろんな国が欲しいと思う土地当然、武力の弱いハワイは西洋人に虐められていたわけです。

直接の相手はどこどこの国というのではなく、移民してきたアメリカとヨーロッパ人のビジネスマンたちやその息子たち。(後にアメリカは外からごそっとハワイを騙し取るわけなんですが)。そういう流れは強すぎて、逆らおうとすれば、息絶えてしまう。それを理解されていたカラカウア王は知恵を使って、そのなのとおり戦い抜こうとされました。

王の人柄は、一緒にいてとても楽しい人。愉快な王様という意味でメリーモナークというあだ名が付けられていましたが、新しい試みに挑むにふさわしい人材でした。常にオープンマインドで一つ一つを極めていく性格。様になる前は、新聞記者、秘書、政治家、弁護士、消防士や郵便局長でした。それだけではなく趣味の部分では作曲もなさった。今でも購入できるハワイの神話を集めた本 レジェンドオブハワイは、彼が書いた本。ライターでもあったのです。

王に就任されてからは、世の中の状況を理解しまるで地球まるごとアロハで抱きしめたいかのように、日本、中国、シンガポール、マレーシア、ミャンマー、インド、エジプト、バチカン、スペイン、ポルトガル、フランス、ベルギー、ドイツ、イギリス、スコットランドそしてアメリカと世界の首脳に会いに自らお出かけになりました。アメリカの両議会で発言された外国の首脳は、実は彼は初。世界歴史の中でも歴史に残るようなことをされているのです。

世界史に残るような、と言えば、ホノルルのまちづくりも、そうです。海外を回る中で、取り入れた技術を生かし、電気を張り巡らせたころ、アメリカやヨーロッパではまだガス灯が使われていました。イオラニパレスを再建築した際にも新しい技術をお使いになり、ホワイトハウス(アメリカ大統領の家)よりも早く電気が入っていたそうです。

よもやすれば、新しもの好きな王と勘違いされるかもしれませんが、私は、彼がこの様な行動を取られた理由は、ハワイをこよなく愛するがためだったと思うんです。世界に並ぶ努力。世界にまずハワイを理解してもらえば、王国がなくならないで住む。ビジネスマンたちに立ち向かえると思ったからだと思うんです。例えば彼が行なったフラへの活動に、それが現れている。西洋の文化しか理解を示さないビジネスマンたちが、半分裸同然でやるフラやサーフィンは野蛮人のやることだとし、一時フラ「禁止」と威圧をかけていた時、王は、丈夫に文化を掘り起こし、今の私たちまで繋いでくれました。西洋の人たちにも受け入れてもらうためにモダンフラを作った。みなさんもよくご存知なアウアナ。あれはこの王が作ったのです。それまでお祈りのためのフラだったのを、きらびやかさを競うフラの祭典としてメリーモナークのイベントを作った。それもこの王様の「ハワイをこよなく愛する」がための企みだったと私は思えてなりません。

彼はきっと「世の中には悪い人などいない」と思うタイプの人だったんだと思います。「いつかは分かってくれるだろう」あの手この手で世界にハワイが王国として認められる様に努力なさった。

しかし、あの日。

ビジネスマンたちに銃を頭に突きつけられ、法律を書き換えさせられたあの日。彼は既に、命の火を消してしまったのです。

その後、すぐに王は思い腎臓の病にかかりました。

そして。。。

治療のために向かったサンフランシスコで、その一生を閉じられたのです。

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いかがでしたでしょうか?

次はダイアモンドヘッド側に足を進め、プリンセスに会いに行きます。

    

記事: エミコ•コーヘン
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