私が住むノースショアはサーフィンのメッカ。世界一と言っても大げさでないほどのクオリティー高い大波が押し寄せてくる場所です。まさにサーフィン天国。言い換えれば「サーフィンの聖地」。今日もサンセットビーチでは、世界大会の最中。世界各国のトップ選手が人の背丈の3倍ほどある波で、サーフィンの腕が競われています。
選手だけではありません。今やサーフィンレッスンをしてくれる会社の数も増えたから、サーフィンをしたことのない人だけでなく、海にも入ったことのない人たち(カナダ人の観光客など)も、ノースショアで初サーフィン体験できるほど、ノースショアのサーフィンは人気アクティビティーになっています。
しかし実は、ノースショアでサーフィンが始まったのは、つい最近のことなんです。(歴史を学んでいると100年くらい前までは「つい最近」と言ってしまうんですよね。笑)
今日は一緒にサーフィンの歴史を探って見ましょう。
時代を巻き戻し、キャプテンクックがきたあたりから、お話しします。
キャプテンクックといえば、記録に残る歴史の中で、初めてハワイを発見した人です。逆からいうと、ハワイアンがみた初めての西洋人(白人)です。その彼の右腕として働いていたキャプテン·キング。クックがハワイアンに殺されてから三ヶ月後の1779年3月。懲りずにハワイにやってきました。その時に彼は、先住民がサーフィンしているところを目撃しているのです。それを彼は、事細かに書き残した。初めて書き残されたhe’e nalu·ヘエナル(サーフィン)の記事です。
「湾になる海の岸から約15メートルくらい離れたところに広がる浅瀬。そこに、ストームな天候から出来たウネリがぶつかり、高い波を作る。そのたびに原住民たち、20人、時には30人が、それぞれに細長く先が丸い板を抱え、海に入って行く。沖に向かう最中、大きい波が彼らの目の前で割れると、その波の下を潜り、波をやる過ごした後に、また沖に向かい漕いで行く。タイミングが合わなければその波に巻かれて戻される。そうなるとかなり大変な目にあう。岩場に叩きつけられてしまいそうになったり。が、うまく岸辺の波を超えたものは、スムースなスペースに身を置くことが出来る。そこで波を待ち、波が入ってきた時に、方向を変え波に乗り、岸に戻る。彼らは、何本か入ってくる波のうち、一番力の強いしっかりした波を乗る。しっかりした波に乗れば、岸までボードに乗ったままで戻ってこれるからだ。が、間違えて小さめの波に乗ってしまうと、岸と沖との間に置き去りになる。そうなると、沖まで先に述べたように波の下を潜りながら戻っていかなければならない。岸辺に戻ってきた先住民たちは、岩と岩の間のわずかな砂地を見つけ、波と波のタイミングを見計らって、岸に上がる。かなりな腕前が必要な様だ。これまで多くの先住民たちが、タイミングが合わず、波に板をさらわれ、板が岩に叩きつけられ粉々になったのを見た。その壊れた板を丁寧に集めるという作業も見た。なんとも大変な作業である。しかし、うまく波に乗った先住民の姿は、なんとも勇敢で、優雅だ。」
キャプテン·キング以外の西洋人も波に乗っていた先住民たちを目撃したのですが、何をしているのか全く見当がつかずにしっかりした記述になり残っているのが、当時のこのキングのものだけでした。
当時の西洋人は、この先住民たちの波に乗る姿をハワイアンスポーツとして記録しました。が、それ以上に何か神聖なものが隠れていると感じてもいました。理由は、王家の人または王家の人の黙認の上で波に乗る行為だった。プラス、ほとんどの西洋人航海師は泳げなかったから、そんな彼らにとったら、そんな先住民族の行為は、神業に見えた様です。
とは言え、文字に書き残す習慣のなかっただけで、ハワイアンたちも、岩にサーフィンのペトログリフ(岩面彫刻)を残していました。(海岸線を歩いている時、気にして見ていると、意外と簡単に見つかったりします。)
このことから、少なくとも1500年ほど前に、サーフィンの習慣がハワイアンたちに根付いていた様です。
歴史家たちのリサーチによると、サーフィンはカプシステム(法律)で管理されていた行為だということです。王家の人だけが出来るもの。けれど、息抜きの趣味というのではなく、荒れた海でサーフィンすることで、勇敢ぶりを競う行為。要するに、誰が人の上に立てる存在であるか、波に乗ることで決めたという政治に関わる大切な行為でした。
そんな大切な行為を可能にする板。サーフボードを作るという行為も今と全く違っていました。
自然を利用する代わりに自然に感謝しお返しをする。それが古来ハワイアンのスタイル。どの素材で板が作られたかで、その人の地位がわかる。アリイ(王家)の中でもトップクラスの人たちは、上質な木で作られた14~16フィートの大きな板。木の種類は、olo(オロ)、wiliwili(ウィリウィリ)が主で、後に一般の人がサーフィンする様になった時代もあり、その一般の人が使っていたのはkoaコアやalaiアライ。サイズは少し小さく10フィートから12フィートでした。
サーフボードにする木はクラフトマン(神がかった職人)が、コレという木を決めます。切る前にはお祈りが捧げられ、根っ子のところにはクムという名前の赤い魚を埋める。その儀式をしっかりと行ってからでないと、木を伐採することはできませんでした。
木が切られた後、サーフボードの形に削られる。削る時に使ったのは、小さな斧の様なものか石です。ある程度の形にされたその板は、カヌーハウス(ハラウ)に持って行かれて仕上げ。pohaku puna(ポハク·プナ)珊瑚のかけら、またはoahi(オアヒ)ゴツゴツした石で、板をより滑らかにしていきます。滑らかになった板に、黒塗りされる。使われた素材は、ティーリーフの根、バナナの芽、hili (ヒリ)。こうして黒塗りされた板に最後にkukui(ククイ)ナッツの油をつける。すると見事に黒光する豪華なサーフボードが出来上がる。
こうして丁寧に何工程も経てできた当時の板の管理もかなりきちんと行われていた様です。毎回サーフィンした後に、ココナッツオイルで綺麗に表面を磨き、tapa(タパ)の布でしっかり巻かれ、次の出動の時まで大切に保存されました。
この様に王家の人の元でされるカプシステムの中にあったサーフィンのスタイルは、1820年のニューイングランド(アメリカのはしり)の宣教師がハワイに来るまで続きました。
なぜ白人の宣教師が来たらサーフィンのスタイルが変わってしまったのでしょうか?
スタイルが変わったというのではなく、波にのる行為自体が野蛮人がする時間の浪費だと卑下され、やる人がどんどん減ってしまったのです!!結果、1890年。海でサーフィンする人はほとんど誰もいない、という状況にまでなってしまいました。
もし、ハワイアンの文化を盛り返そうと運動を起こしたカラカウア大王がいなかったら、きっとサーフィンは消えていたのではないかという意見を持つ歴史家も少なくありません。
で、かろうじて繋がれたサーフィン文化。1905年。当時青年だったデューク·カハナモクが友達とワイキキのビーチにたむろいサーフィンを日常的にやる様になった。後にHui Nalu(フイナル)サーフィンクラブを設立しました。その頃には、多くの外国人がハワイに訪れていたのと、アメリカの植民地になったのとで、宣教師下のハワイではなくなった。そのため、サーフィンが違う形で復活。今度は観光客の興味心に支えられ、サーフィン人口はどんどん増していきました。
もう一人、サーフィンが世界的にも有名になった鍵になる人物を紹介します。
ショートボードを開発した人、アイリッシュハワイアンのGeorge Freethジョージ·フリースという人です。カリフォルニア州の土地開発に関わるヘンリーハンティントンは、彼にサーフィンのデモンストレーションを依頼した。Redondo-Los Angeles railroad 電車を開通する際のオープニングセレモニーでサーフィンを披露して欲しいという依頼でした。
その一件で、カリフォルニアにサーフィンが広まり、その後に、彼が開発した軽いショートなボードが出来たお陰で、ワイキキだけでなくウエストのマカハやノースショアでサーフィンをやる人が出てきた。奇しくもカリフォルニアのサーファーたちがノースショアの波の初チャレンジャーでした。(1955年)徴兵制で多くの若者が政府のコマになり、ベトナム戦争で死んでいく中、自分の自由のために立ち上がった時代。ノースショアへの命がけチャレンジの裏には、そんなカリフォルニアの若者たちの強い意思が隠れていたのです!!!
「悪いことも、良い方向に向かうキッカケになる。だから起きたことは最悪なことであっても否定せずに、受け入れていくんだよ」
ワイァナエのカフ(長老)の言葉がまさにサーフィンにも現れている。
面白いものですね。歴史というのは。いろんな出来事、いろんな人、いろんな人の気持ちが絡み、新しい方向へと進んでゆくんですね。
私たち個人のレベルでもきっとそう。
今は辛く感じてもそれは未来の為なのかもしれません。
頑張りましょう。
お互いに。
それではまた次回まで
アロハ~!
記事: エミコ•コーヘン
ノースショアの宿(ハワイラブカード加盟店)
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