写真 ハワイ サトウキビ時代の日本人移民 HAWAIIAN JOURNEY より
「日本人の顔をしてるのに英語しか話さないお爺さんやお婆さんがハワイには多くいる」ハワイにいらして、その事に気づいた人は少なくないはずです。2010年のハワイで行われた人口調査によると、その数、312,292人。白人、フィリピン人に続き、日本人がベストスリーに入っている。なるほど。ハワイでは、行くところ行くところに日本人顔のローカルに出会うのも納得できますよね。
さて、なぜハワイにこれほどまで日本人人口が多いのでしょうか?
遡れば、古来の頃。黒潮に乗って日本の人たちがハワイに流れ着いたという話とか、明治政府で活躍したジョン万次郎が日本で漁をしていた頃、漁に出て遭難した際に捕鯨船に助けれら、ジョンマン以外の数人がハワイに居残ったという話とか、少しずつ日本人は、ハワイに移住をしていたのですが、劇的に日本人人口が増えたのは、砂糖きび畑の頃です。
すでにこの話を知ってる方は多いと思うので、少し深いところのお話をさせていただきます。かなり話は遡ります。
1778年にキャプテンクックがサンドイッチアイランド諸島(ハワイ諸島)を発見したのち、すぐにハワイのことは世界に広まり、キリストの宣教師たちや、捕鯨船に乗った人たち、ようするに白人たちが、ハワイの島々に来る様になりました。
そして、サトウ産業が盛んになった最初のきっかけは、1835年のこと。ラッドアンドカンパニーに仕向けられたハワイに来た白人、26歳の若者ウイリアム·フーパーがカウアイ島に初のサトウキビ畑を作ったのが始まりでした。
山や川や海が揃っている東洋の農業は、季節に合わせた作物づくりを、ある自然にマッチするように(自然を崩さないように)行われていましたが、水の少ない砂漠地域から発生した西洋の農業は、水路を引くなど、無理やり自然を人の力で変え、作物を作り保存するという人口的なものでした。西洋人がハワイに来た時に、まず考えたのは、西洋的農業を広めること。気候が良く水も豊富なこのハワイで農業をすれば大儲けができるだろうと思ったのです。
最初のサトウキビ畑は12エーカーの小さいものでしたが、カメハメハ3世がグレートマヘレという土地の区画を決めたことで、サトウ業者に土地がごそっと渡った。なので、一気にサトウキビ畑があちらこちらに出来ました。
(グレートマヘレは、白人たちに土地を取られてしまわない様にとハワイアンを守るために作った土地所有を定めた法律です。しかし、土地が所有できると知らなかったハワイアンたち、そして、アルコールにイかれたアリイたちのせいで、いつのまにか砂糖業者が広大な土地を手にすることになったのです。)
サトウキビ畑が広まったときにちょうど、アメリカがゴールドラッシュや内戦などなどで、砂糖を輸入しなければならなくなりました。そして、ハワイの砂糖を無税金で買うということが決まったのです。結果、砂糖産業がみるみる膨らんでいったのです。
サトウキビ畑が大きくなるにつれ、必要になったのはワーカーたち。ます、フーパー氏は、ローカル(ハワイアン)たちをまずは雇いました。が、うまく働いてくれなかったのです。理由の一つは、時間の使い方がハワイアンと西洋の人とでは違ったから。これは前回のブログにも書きましたが、ハワイアンたちは月や太陽など自然のリズムに合った時間の使いかたをしていたのに、西洋農業では、月が丸くても細くても関係なし。朝、規定の時間に起き、昼間は働きつめる。それに慣れていなかったハワイアンたちはすぐに病気になってしまったのです。もう一つ、アリイたち。西洋かぶれをして浮かれたアリイたちは、古来ハワイの社会のリーダーとは違い独裁的なリーダーとなってしまっていたんです。そしてカプの乱用をし、働かなければ死刑という厳しい規則を決めた。そんなアリイの畑で働くよりはサトウキビ畑の方がまし、という理由でハワイアンたちがサトウキビ畑に就職したのに、給料はアリイに支払われ、ハワイアンたちに直には届かないということになっていた。ハワイアンたちは労働意欲を失ってしまいました。
買い手は待ち構えているのに、生産が進まない。困ったフーパーは、中国人を雇うことにしました。ハワイにすでに住んでいた数人の中国人を雇ってみると、これまたよく働いた。すぐに会社に連絡し、たくさんの中国人を送ってもらうことにしました。1864年にオアフ島の東側にできたシュガープランテーションの前の島が、それまではモコリイとハワイアンネームで呼ばれていたのに、チャイナマンハットと呼ばれる様になったのも、このときの中国人がいかに砂糖産業で活躍の現れなのです。
1883年。気がつくと中国人はハワイ人口の四分の一(25%)まで膨れ上がってしまいました。政府は「これ以上中国人が増えてはまずい」ということで、規制を始め、日本人を雇うことにしました。そして数年後、日本人の人口が今度は膨大に膨れ上がった。砂糖業者の記録によると中国人と日本人が集結することはない。日本人は終結してデモ運動を行う。ストライキで何日も働かないことがある。日本人の力を恐れた業者たちは、再度、中国人たちを受け入れる様になり、日本人の力を薄めようとしました。そのうちハワイがアメリカになり、中国人の移民を受け入れる代わりに、フィリピン人を多く受け入れる様になりました。オアフ島のワイパフは以前、日本人だらけでしたが、おおきなデモが行われ、シュガープランテーションの労働者はフィリピン人にすり替えられ、今ワイパフはフィリピン人が多くすむ街になっています。(話はそれますが世界的に有名な歌手ブルーノマーズもフィリピン系の人で、ワイパフ出身です)その後も国度通しの人間がまとまり、力を強めることを恐れ、韓国やポルトガル、プエルトリコ、ニューハンプシャー州の奴隷(黒人)も労働者として受け入られる様になり、今の様なミックス人種のミックスカルチャーが産まれたのです。
話はそれてしまいましたが、日本人労働者がなぜそこまで増えたかというと、ちょうどその頃1880年前後、日本は稀に見る日照りが続き、農家の長男はかろうじて耕す畑があったものの、農家の二男、三男は、ただの厄介もの。家族を思った末、ハワイへの就職の話が舞い込み、「ハワイで一稼ぎして日本にお金を持って帰ってくるぞ」という思いで、ハワイに来ました。それなのに報酬は、少しのお金と業者が作ったお店で買い物ができる商品券。結果、帰国を諦めらざるをえず、多くの日本人がハワイにやむなく腰を下ろすことになったのです。
(山口県大島の漁師さんたちは、海に漁に出る様に、ハワイに出稼ぎに出たそうです。「日本ハワイ移民資料館」に行ける方は是非。当時の人の状況と気持ちがダイレクトに伝わってくることでしょう。 http://www.towatown.jp/hawaii/
写真 朝から晩まで、しかも病気の日でも働かされた(日本人)労働者たち Photographers of Old Hawaii より
最後に(少し長くなりますが)日系一世が残した日記を書かせていただきます(参考資料:Menton Tamura 著 ハワイの歴史)
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としおの記述
私は、平田としおです。私の父は侍で、母は農民の娘でした。私の父が若かった時、武士から天皇に主権が移りました。侍はそれまでの地位を失い、他の仕事につかなければなりませんでした。
父が日本中を渡り歩き、新たに歩むべき道を探していた時です。ある年寄りの農民が父のところにやってきて「私の娘と結婚してくれうちの婿となり、日々、畑仕事に汗をながしてくれるならば、私が死んだ時に、私が持っている全てのものを君に遺産としてあげよう」と、言って来たそうです。
父は、その話を受け入れました。何年か後、その男(おじいさん)の土地は、父のものになりました。父は、家族を支えるために、一生懸命働きました。キク(母)、私の兄のかずお、妹、そして私のために。
おじいさんの時代はウトの村は、毎年、畑からの収穫がたっぷりあり、とても豊かな村でした。約300件ある農家のほとんどが米を作り、うなぎを川でとり、鶏が育てられていましたので、誰もひもじい思いをしなかった、それがおじいさんの時代でした。
繁栄の時期は続かないのが常です。父の時代、数年の間、日照りが続き、穀物が全く育ちませんでした。多くの家族が村を離れ、街に越してゆきました。そんなある日、父と私は長崎に行きました。お金持ちのビジネスマンに、土地を売りに行ったのです。そこで、私は初めて、外国人を見ました。外国人は大きな船で日本にやって来ていました。それを見ていたら「僕もいつかあんな船に乗って、世界へ出てみたい」と思う様になりました。
時々、その外国からの船は、ハワイシュガープランテーションのリクルートエージェントを乗せて来ました。日本のエイジェントと絡み、日本の若者たちに声をかけていました。「ハワイで稼ぎに行かないか?明るい将来のために。ハワイには冬がない。一年中、夏だから、過ごしやすい。3年だけ契約ワーカーとして働けばいい。給料も日本の農夫よりよっぽどいい。3年経ったら、好きな様に出来るんだ。ハワイに行かないか?」と。
なんて素晴らしい話だろう。次男は家にいても意味がないもの。ハワイ行きを見逃す手はないだろう。そう思う様になりました。「ハワイに行ったら3年だけ働いてお金を持って帰って来ればいいことだ。。。その時、僕は19歳だ。。。親の為に土地を買ってあげよう。新しい家も建ててあげよう。。。ハワイ。。。どんなところなんだろう。。。でも船が行き来しているんだから、そんな大変なことじゃないはずだ。日本に戻って来たら、たっぷり村の人たちにお土産話をしてあげよう」
「お父さん、お話があります」とうとう僕は父に話しを持ち出した。自分の意思が固いということを知らせるために、背筋をシャンとし「ハワイに行かせてください」と、伝えると、父は目を細め困った様に、それでいて優しい声でこう返してきた。「なぜお前はわざわざそんな遠いところで農夫をやろうと言うんだ。自分の先祖様の土地を耕すのではなく、なぜに他人の土地を。俺は反対だ」
「お父さん、土地はすでにこの飢饉のために売り渡してしまって、残ったのは以前の三分の一ほどの大きさです。兄の和夫が一人で耕せる大きさです。妹は、まだ14だから、いくらでも他の安定した農家に嫁ぐことができます。次男の僕は農家で育ったため、字の読み書きもロクにできません。そんな僕ができることなんて日本には残ってない。海外に出て稼いで村に帰ってくることが僕に残された最後の望みなんです!」
こう言った後に何か悪いことを言った様な気分になっていた。壁の向こうを見つめ、しばらく黙っていた父が口を開いた。
「としお、酒を持ってこい。次の正月に飲もうと思っていたあれを。おまえが元気に未開の土地で働ける様に乾杯をするんだ。戻ってこいよ。家族が日本の恥になることは決してするな。無駄遣いもするんじゃないぞ。一生懸命働いて来いよ。」
1898年のことだった、
今でも僕の脳裏に焼き付いているんだ。二度とみることのなかったその時の父の姿が。
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写真 ワイアルア地区にある建物に描かれた壁絵。良くも悪しきも今のハワイの土台を作ったのが、かつて存在したサトウ産業なのです。
過去があるから今がある。。。今があるから未来がある。
それではまた次回まで
アローハ!
記事: エミコ•コーヘン
ノースショアの宿(ハワイラブカード加盟店)
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You tube「英語の勉強しよう!」https://youtu.be/2MlQIl2N3dI
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