今日はオアフ島、西海岸にある聖地をオアフ島に最初に住み着いた一族(サメ一族)。言い換えれば、彼らの後に島に移住した民族に「メネフネ」と小人(または奴隷妖精)というレッテルを貼られてしまった一族。その一族の2000年前から変わらぬ教えを保持していらっしゃる元小学校の校長先生グレン·キラさんの方の案内で彼らのウヌ(テンプル)を訪ねた記録をみなさまにシェアさせていただきます。
深呼吸····
始めます
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「ここは命の意味を知る場所なのです」- Anakala Glenn
「どうぞ中へお入りください」祖先への許可(チャント)を捧げた後、丁寧な言葉づかいで彼はわたしを聖地に誘導してくれた。
気軽に言葉に従い聖地に足を入れた。が、その彼らの「聖地に入ると言うこと」それは「自分の命の意味を知る学校への入学した」ということだった。後に気がついたことだが。
『聖地との出会い』
ジブリの映画「風の谷のナウシカ」を思い出すようなその地。風が心地よく吹き抜けるワイアナエ山脈に囲まれた谷。そこに昔と変わらぬ姿をして存在するウヌ(神社)がある。
テンプルを囲む石の塀は、かつてここで生きたハワイアン民族が、手で、丁寧に一つ一つ積み重ねたものだ。
神の像がないのはなぜ?
血の争いを好まない民族だから。アリイ(貴族)が存在せず、太陽神(カネ)の元に、ただただ自然と調和することに日々を費やしてきた民族。その民族には「絶対な力を持つもの」は存在しないのだ。神はいる。あちらこちらに。けれど、それは人間と生活に密着する神々。西洋文化のキリスト教やユダヤ教のような絶対的な力を持ち、人の上から指示する神ではない。だから神の像はない。それがウヌ。ヘイアウとは違う。ヘイアウの神の像の下には、神の力を魅せしめる様に、必ず、戦争で破れた兵士の頭領であったり犠牲(生贄)になる人間の死骸の一部が埋めてある。ヘイアウを拝んだカメハメハ大王の様な人の場所を征服する血族とは違う。
理由は、彼らは、「人や神に征服される人々ではない」から。一人一人がまさに「神に並ぶ存在」。アナカラグレンは、心から、世界の皆が同等のパワーを持っているということを知っていて、それを伝えようとしている。
アナカラは、古代から伝わるチャントを唱えた後、私にその八畳ほどのこじんまりしたテンプルへ入るようにと勧めてくれた。
いつの日からか使われなくなったウヌ(神社)に私は一人で立たされた。
『人知れずこのウヌの上を何度太陽と月と星がこの真上を通ったことだろう。もしかしたら人が人をではなく「自然こそが私たちを司るべき存在」なのかもしれない。』
建物も何もない。周囲に人影すらも見えない。見えるのはただ山。そして風。「今」というこの時間が永遠に溶けてゆくとは、こう言うことなのかもしれない。
囲まれたこのウヌの空気が全部体の私の細胞になってくれたら。。。そんな思いで深呼吸をする私に、アナカラグレンは話を始めた。
「ここはかつて私たち一族が「教育の場」として利用していたところなんです。」
彼が言う教育とは現代の私たちが受けている教育ではない。すでにマヌラ二から「本当の教育とは何か」を教えられてきたわたしだからだろうか、すぐに私は彼が言う「教育」の隠語を察した。
その教育とは、宇宙が正常に動くためにあるべき地球の姿を伝える教えであり、地球が正常に動くためのあるべき社会の姿を伝える教えであり、社会が正常に動くためのあるべき家族の姿を伝える教えであり、家族が正常に動くためのあるべき個の姿を伝える教え。それが彼のいう「教育」。
実際には、山のおね一つ一つの特徴を理解し、太陽、星の昇降を理解することで、時期、時間、季節を理解する。月の周期とそれに関する海流への影響を理解することで、魚がどの時期にどの様にどこへ移動するのかのサイクルを把握する。鳥の動きを理解することで、嵐の兆候を察する力をつける。雲の形、雲の流れで、天候を予測する力をつける。
そして様々な自然現象、山々や川や雲の「名前」を覚える。その名前を一つ一つを暗記する理由は、隠語を自ら感じさせるため。隠語に含まれた意味を丹田で受け止めることができた時に、初めて生活に活かせる超越したエネルギー(マナ)を身につけることができる。そのタクティクスを皆が学ぶ。
覚え方は、今の様に教科書に書かれていることを丸暗記させると言う教育ではない。クプナ(先代)が真剣に子供たちに向き合う。実際に生徒をその時のその場所に連れて行き、そこで、何度も何度も「声に出して」尾根の名前などを言わせる。
「何度も言っているうちに覚えるんです。そしてその意味も理解できる様になるんです」と彼は言う。
ふと私は彼の言葉を聞いて「言葉に魂が宿る」と言う日本古来の言い伝え『言霊(ことだま)』を思い出した。声に出しているうちに自然の神々が意欲を受け取り、その生徒に大切なマナを授けてくれるのではないか。アナカラの個人授業はまだ始まったばかり。だがすでに確信している。
ここが「命の意味を教えるところ」なのだということを。
『征服され続けた歴史』
今までの様々なハワイアン文化の勉強が、全てここで重なり合った気がした。同時になぜか脊髄と耳の後ろが大きくなった様な、不思議な感覚に見舞われていた。ハワイの言葉を使うとこれが「マナ」と言うのだろうか?確実に何かがそこにあることを、スピリチュアルに敏感な私でも、感じていた。「宇宙とここは繋がっているんだろうか?」とんでもないことを考え出した矢先にアナカラは私にさらに深い歴史上の「真実」を話してくれた。
「あの小山をみてください。あそこからマウイのカヘキリが攻めてきたのです。最初に攻められた時には、私たち一族は負けてしまいました。が、二度目は、勝ちました。そして、あの小山からは、カメハメハが攻めてきたのです。左の山は逃亡の山です。あの険しい崖の上に登れたらセーフ。敵が追っかけてきたとしても、石がゴロゴロ落ちて行くから、後ろからはついてこれないのです」
プナナウラ。この小山に囲まれた谷の名前だ。相当に広い。が、彼らの土地は、ここだけでなく、海外線全域にまで伸びていたと言う。
「私たちは基本的に漁をする民族です。ミネフネとレッテルを貼られてしまい、今では夜に現れる体の小さい働き者の妖精の様に思われていますが、実在していたのです。今まで人間の歴史の中では、強いものがよそから来ては、それまで住んでいた弱いものを追い払う。そしてそれ以上に強いものが到来して、2番目にきた民族を追い払う。そしてまた強いものが押し寄せて、それまで住んでいた一族は追い払われる。でも、確実にこうして私たちは血筋をつなげて来ました。」
彼らの間にはアプフアアと呼ばれる区画分けがなかった。自然と繋がり、自然に感謝し、自然から与えてもらう生活には、隣村との境などは必要なかった。区画分け(アプフアア)ができた理由は、後にオアフ島にやって来た民族には貴族というものが存在していて、その貴族が平民から税を徴収するために、区画というものが必要だった。西洋人が入って来た時も、彼らの土地へのコンセプトは、海や空気と一緒。人が土地を所有できるということを知らなかった。その為、耕す畑を失ってしまった。
「何度も何度も追い払われてしまいました。つい最近、私のおばあさんの時代にも。1937年のこと。アメリカ軍が突然やって来て「ここは政府の土地だから出て行け」とおばあさんは政府から告げられた。けれど、もちろん鵜呑みにはせず、『自分の家』から出ないでいると、電気を止められてしまったのです。電気を止められても痛くも痒くもなかった。暗くなれば寝ればいいだけ。朝日と共に起きて働けばいいのだから。ところが、政府の人たちは、水道を止めてしまったのです。ただですら西海岸地域は雨が少ない。水がなければ畑が干上がる。結局、家を明け渡すことになったのです。」
最初に住んでいた民族の彼らは、カプ(厳しい掟)などなく、ただただ与えられる環境に感謝し、それを上手に循環させ、静かに暮らしていだだけ。それなのに、何度も何度も、後からきた他の民族に、追い払われてしまい、教えまでも卑下されてしまった。それなのに、なぜ、こうして私のような外国人までも暖かく迎えてようとしているのだろうか?日本人は真珠湾をも攻撃した。その血を引く私に親切に教えをシェアしてくれている。なぜなんだろう?
「戦争に関わり攻めて来たものたちには罪はありません。政治を操る一部の人たちに洗脳されているだけなんですから。私たちは皆、同じように暖かい血が通う人間同士。臍の緒がある人間同士。恨む道理はありません。」
話を聞いているうちに、モロカイ島にも最初に島に住んでいたいわゆる「先住民族」が書いたThe Tales from the Night Rainbow を思い出した。未だに昔と変わらぬ「教え」を細々とつないでいる民族。その民族の血を引いた方が書かれた本だ。アナカラもその本に書かれていることと、自身の民族の状況はとても似通っていると言っている。戦争、暴力は、必要なのか? 今の世の中の私たちの為に書かれている様な部分を紹介しよう。
「武器を持って来た民族は、私たちの島に移住し、私たちの教えをまるで自分たちの都合よく変え、自分たちの教えのように次世代に伝えていった。私たちをマナフネと呼び、森の中に追いやった。私たちは、日中は自分たちの生活を支える為に働き、夜は新しく来た民族の厳しい掟付きで出された命令に従い働いた。一晩でフィッシュポンドを作れというきちがいじみた命令にも従わなければならなかった。私たちの民族は、罪を犯した者に、厳しい処刑を下すということはしない。盗みを犯したものをすぐに殺してしまう新しく来た人種とは違う。理由は、私たちは、BOWLof LIGHT を生まれながらに持っているのを信じているから。BOWLof LIGHTとは。。。人はそれぞれ生まれながらに、パーフェクトな光をたたえたボールを持っているのだ。光に向かえば、鬼に金棒だ。例えば、サメと泳いだり、鳥と一緒に飛んだり、全てのことを明らかにできる力を持てる。だが、その光に気がつかず、他人を嫉妬したり、うらやんだりばかりしていると、ボールの中にどんどん石ころが溜まり、しまいには光が消えてしまうばかりではなく本人自身が石になってしまう。しかし石が溜まっていることに気がつき、光が消えてしまう前に、ボールを逆さまにして、石をボールから出してしまえば、また光は戻ってくる。私たちは泥棒には罪をきせるのではない。無視をするのだ。障害、皆から無視されるということは、危害を加えられるよりも辛い。私たちは知っている。マインドパワーがいかに力強いかということを。」
人を無理やり従わせると、どこかで皺寄せが出来、自分に戻ってくる。征服するのではない。それぞれの人に「徳」を解くこと。それが心底強い人間社会を作る基であるべきなのかもしれない。
『Kaʻananiʻau-伝えられた知恵』
20世紀を代表する歴史学者アーノルド·J·トインビー(1889ー1975)は、生前こんな言葉を残された。「12、13歳位までに民族神話を学ばなかった民族は例外なく滅んでいる」と。
確実に伝えられている。アナカラグレンを通して、2000年以上前の古代の教えというもが。何度もとなく他所からひどい仕打ちを受けたというのに、消えることなく現代までも。だから生き残っているのだと思った。
「物事には何をみてもどれをとっても必ず「良い面と悪い面」を持ち合わせているのです。その悪い面を取り除くのではなく、両面を自分の人生の綱に編み込むんです。編み込む。受け入れるのです。それが強い自分を作る方法の一つなのです。」
アナカラが現代の人にわかりやすく説明するために、時として西洋との比較を持ち出してくる。逆を返せば、それだけ今の世の中は、西洋的な考えに染まりすぎているということなのだろう。それが悪いというのではない。ただ便利さを求めたり、今の世代だけの成功を考える人が増える結果、地球は汚染され、争いは絶えることがない。貧富の差もますます広がるばかり。物に恵まれてたとしても、幸せを感じることが出来ず、命を傷つける人も増えている。
「苦しみは生きていく中、つきものなのです。けれど、苦しみも実は「楽しむ要素」を持っている。どんなに暗く見える出来事でも、必ず明るい面がある。戦争は確かに辛い。でも戦争があったからこそ、変化が起きた。全てをぜーんぶ受け入れてしまえばいいのです。」
アナカラの民族の教えは、西洋の考えでは「理解出来ない、非科学的な教えだ」と卑下されて来た。実際に家族の中でも今の(西洋基盤の)教育に染まった次世代にわかってもらえず、キチガイ扱いされた。それが怖く、教えを葬った人も少なくない。
このままでは完全に消えてしまう
そう思ったアナカラは、仲間と共に、イングランドに出かけ、世界の宗教団体と掛け合った。結果、彼らの教え「カーネヌイアケア」は、カルトではなく他の宗教と変わらない教えを持つ立派な物だと、証明された。
「私たちの教えには40万もの神々がいます。日本は800万でしたよね。日本の方が広いから(笑)。私たちの神々は、自然にあるものの中に存在する魂的なものです。決して西洋の神様のような、人間の形をして人の上に立つ神ではありません。十戒もありません。言い換えれば、サイエンスの分野でいう原子のような存在。ネイチャーを教えるものなのです。科学的にも証明されているように、地球の、いや宇宙のあらゆるものは、私たちの体を作る素材と同じもので出来ています。それを私たちは「家族」と言います。山や谷を土地、星、空気、全てが私たちの「家族」なのです。」
科学を優しくしたのが彼らの教えなのだ。
どの人にもわかりやすく皆が知らなければならない「真実」。宇宙が生まれヘリウムとハイドロジェンが融合しあう中、他の原子がアクシデントで出来、そこに熱が生まれ、新しいものが次々と成る。それぞれ違う特徴を持ちながらも出どころは同じ。それが彼らのいう「神々」。一つ神のコンセプトとは全く違い。多種多様な原子もとい「神々」がある(いる)から、わたしたちの命を支えるものが存在する。
言い換えれば、原子「神々」が折り重なって出来ているなら、わたし立ち自身が「神」と訳すことができるのだ。
「私たちの教えはカアナ二アウに基づいているのです。カア(廻る)ナニ(美しき)アウ(今、目の前の世界)。その隠語は、今の私たちが肉体を持つ間(アウ)に、目の前に与えられた全てのものを未来の子供たちの為に、「できるだけ美しい状態」にして次世代に手渡す。生きる道を解くものなのです。わたしのクプナ(長老)は、よくわたしにこうおっしゃってくれました。「大地を敬えば大地は与えてくれる」と」
カアナ二アウの根底には「許し」があるとアナカラは言う。歴史は決して個人の力では変えることが出来ない。人の怒りも変えることが出来ない。だから「許すこと」だとが必要なのだと。
「e kala mai ia’u 意味は、「ごめんなさい。どうか許してください。どうぞわたしを解放してください」。魂に祈るのです。自分が悪いことをしてなくても、そう言葉にするのです。言葉のエネルギーは必ず神々が運んでくれます。私たちの教えの中では「肉体は死んでも魂は死ぬことはない」と言われています。自分が悪いことをしてなくても何故か自分に降りかかり続ける不幸。それは祖先が起こした誤ちの歪みを被ってしまっているからです。だから赦しを乞うのです。何も悪いことをしてなくても、ほんの数分外に出て声に出す。「お母さん、愛してます。お母さん傷つけてごめんね」と生きている人にも。神々を通して言葉がそのひとに降りてゆき、あなたと相手の心を楽にしてくれる。怒りや苦しみは美しいものでマネージする。それがKaʻananiʻauカアナ二アウなのです。」
わたしは彼が言う「祖先」には隠語があると察した。それは直に血のつながる祖先だけではく、私たちに命を与えてくれるもの。植物、大地、海、川、空気、わたしたちの命を支える全てのものを彼は「祖先」と呼んでいるのだと。
「全てはバランスなんです。男と女のペア。太陽が男なら月は女。大地が女で大気が男。海外線に今でも残るウヌには男のウヌと女のウヌがあります。男のウヌは高いとことろにあり、女のウヌはそれより一段低いところにあります。西洋の人がハワイにやってきた時に、それを「ハワイの人たちは男尊女卑だ」と勘違いしました。本当の理由は、そうではありません。自然界の中で男性は太陽、空、大気。女性は大地です。女性は地面から離れられない。離れてはならぬもの。だから低い位置にある。そして男性は太陽、大気。空。ですから、空に近い存在。
女性はアイナ(大地)であり、男性は太陽であり大気であり空であり大気が作る水である。男性がなければ女性は活性化しない。活性化したアイナ(大地)は、子供たちが育つ食べ物を供給する。男女関係なく人々を育てる。男性は女性を活性化させる大切な要素でなければならないし、女性は男性を育てる力がなくてはならい。どちらも良いバランスの元に、なくてはならない存在なのです。
女性は「四季」にも例えることができます。春、夏、秋、冬。季節は移り変わります。怒り狂いやすい大気(男性)は、女性が季節のように変換させることで穏やかにできる。暴れる男性も女性の力で素晴らしい人物になるのです。再度言います。男性も女性も、同等な力を持ち、必要な存在なのです。このバランスは地球を宇宙を永続させるためになくてはならないものなのです。」
『聖地に引き寄せられた訳』
決められた時間内での訪問はあっという間に過ぎた。帰り間際、駐車場近くにあるテントから女性の声が聞こえてきた
「ちょうどご飯の時間なんだけど、一緒に食べて行かない?」
子供のお迎えの時間が迫っていた私は、そそられる気持ちを断ち切り、お断りした。が、「挨拶くらいはしておこう」とテントに入ると、そこには約10名ほどの大人が集まり炊事を手伝っていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
「こんにちは」
シャイな人たち。すぐに察した。言い換えると、大人らしくない。けれどなんだか暖かい。私の横に立っていたアナカラは、この場所の意味。何か行われているのかの説明をしてくれた。
「ここはリハビリセンターなんです。心が傷ついた人たちの。ドラック中毒あがりや、アルコール中毒あがりの人たち、過去に罪を犯した人たちがここに集まる。自分を正していくところなんです。」
私に声を掛けてくれたのはドクター。パディーさんという女性だ。アナカラと同じく、なんとも言えない優しい顔つき。が、優しさの奥に強いものが隠れている。「理想の母親像?」そんな言葉が私の脳裏をよぎる。アナカラは続けた。
「今月の初め、日本を訪問していたんです。たくさんの人に会いました。お坊さん。神道の神主さん。アイヌ民族。広島の被爆者。アイヌ民族は、とても私たちの民族に共通した過去を抱えていると思いました。」
アイヌ?アイヌがハワイアンと共通している??
私の意識の中のアイヌは北海道の観光地で伝統芸を紹介してくれるところ。それくらいにしか頭にはない。アナカラの民族との過去と重なるというと、いかに私は無関心な日本人で、自分たちの罪を無視して生きていたのかと思うと、なんだか複雑な気持ちになった。
「私たちは「ミネフネ」とレッテルを貼られたサメの一族の血筋です。カーネ(Kāne)言い換えれば太陽を自分たちの領主して、日々、個々を戒め地球に害を与えないように、漁中心の生活を行ってきた一族です。最初にこのオアフ島に住んでいた一族なのです。」
カーネ(Kāne)を中心に生きると言っても、もちろんリードする人はいた。ただし、今のような人気とり的な政治家とは違うという。リーダーを決めるのは、小高い山からスレッドで降り、その後、走る。競争をして一定のところに一番先にたどり着いたものがリーダーになったという。「小高い山」と簡単に言葉にしてしまったが、実際にその山を見上げてその話を聞くと、きっと誰しも驚くはずだ。緑がないのだ、その崖には。しかもものすごい勾配。ゴツゴツした崖を時速約60キロで滑り落りたという。命がけだ。要するに勇気と体力と気力を掛け合わせている人が、皆をまとめる人として認められ民を率いる。まるでカチカチ山の金太郎。口先で出来もしない公約を並べて選挙に受かる今のリーダーとは大違いだ。
「存在していた先住民族のところに、他所から力の強いものがやってくる。そして先住民を追いやり、先住民の土地と知恵を自分のものとして生きる。そしてその後にさらに強い一族が押し寄せ、同じことをする。その繰り返しなんですよね。」
ハワイには4つの神様が要ると多くの人は認識している人も多いと思う。それがまさに「征服の歴史」の現れだ。太陽の神の後の上に次々と神様が入り、しまいには戦争の民が神を持って来た。ハワイにはウォーリアー(戦士)がいる戦いの民だったと勘違いしている方も少なくない。フラをやられる人ならわかるだろう。戦うためのフラがある。確かに間違えではない。ただそれだけではないのだ。フラにラカがあるように、平和を讃える時代も確実にあった。いや、実は、そちらの歴史の方が実は長いのに。
私たちは教育の中で、備え付けられた名誉とお金を勝ち取るというのが勝利だとする「戦い」の世の中でどうやって勝ち残るかを頭の中にプログラムされてきた。確かに強い人は良い。弱い人はどうなる。置き去りにされているだけ。置き去りにされたままの人間の数が多くなったらどうなるだろう?。。。アナカラは続けた。
「広島で被爆者の女性に会いました。彼女は原爆が落とされたとき、目の前でお姉さんが亡くなるのを目撃しました。その瞬間から今まで「生きてる自分を認められず」彼女は、毎日、泣き続けていたというのです。私は彼女にカアナニアウをシェアしました。肉体が離れてもそこにお姉さんはそこにいる。そのお姉さんに話しかけること。生を受けた人間のやるべきことである「許す」ことを実行すること。結果、自分を解放させることになると。ハワイに戻ってから、彼女のお世話をする人とお話しをしました。彼女は見違えるように明るくなったというのです。「彼女はお姉さんの声になったんだ」。。私はそう思いました。」
近い将来、アナカラは津波で両親を(または親類を)無くした福島の子供たちをハワイに招き、カアナニアウをシェアする計画を立てているという。親がいなくなった辛さを抱えているだけでなく学校で「お前は放射能で汚染されてる、あっち行け!」と、虐めにあっている子供を呼びあつめるというのだ。ほっておけないのだろう。だが、子供にかアナニアウの説明は、通じるのだろうか。
「感じてもらうんです。山、海、木々、風を。自分が「自然の一部」であるということを体で感じてもらうだけ。自然が実は、お爺さんおばあさんで、家族にいつも抱かれているんだということ。それを感じてくれれば癒されるのです。きっと海と戯れて楽しんだりそうすることで気付いてくれると思ってます。この世は、愛情に溢れる素晴らしいところなのですから。」
アナカラに連れられた場所は、かつて避難所だったという。ハワイ語ではプウホヌアpuʻuhonua。女神カイオナのお話の中に意味が隠れている。実際にはイワバードが嵐が来る前に、避難するところでもある。社会の風に対応できない人が聖地に集まり、羽を休める。そこで「なぜ生きるのか」命の意味を知り、また旅立ってゆく。
「お忙しいのは承知しております。ぜひ、あなたに来ていただいたいところがあります。」
帰り際アナカラは私を引き止め、聖地から5分も離れてない日本人墓地に私を連れて行った。その墓は、サトウキビ時代に日本から移民してきた人たちのお墓。数的には20石ほど。どれも日本の墓石とは形は同じだが違う。お花を供えられている墓石など一つもないのだ。それどころか、石から灰がが掘り出されているという荒んだものもある。置き去りにされているのだ。ここも。。。
「残念なことに、若い世代に先代の苦労が伝わりませんでした。墓に埋められた遺品目当て掘り出されてしまったりお墓もあったり。あなたにきてもらった理由は、墓石の字を読んでもらいたいと。サトウキビ時代に多くの方が日本から労働者として送られてきましたのはご存知ですよね。このワイァナエにもたくさんの日本人がやってきました。ただし最初にきたのは男性ばかりです。後にそんな彼らと写真のみで結婚を決めた女性陣がハワイにやってきました。日系人の間では、親が子供の縁を決めるのが当たり前だったのです。しかし二世はここで教育を受けた人たちです。ある二世の若いカップルは親の意思に背いたことを悔やんで命を立ってしまったのです。それを悔やみ、三世からは、自由な愛を認めることにしたのです。何せ漢字が読めないので、どの墓がそのカップルのものか。。」
墓石はすぐに見つかった。旧漢字だったが、愛と絆がしっかり伝わる文字だったから。当時の人はお墓を作ることで、自分たちの過ちを認め、ハワイに生きる日系人としての道を定めたのです。置き去りにしないことで世の中はあるべき姿に戻ってゆく。その現れだと思った。時間が経ち置き去りにされつつ歴史を掘り起こしたく、アナカラは私をここに連れてきた。ハワイに住む日系人、ハワイを愛して止まない日系人に「未来の子供たちの為に、この過去を置き去りにするなよ」そう言いたかったんだろう。
「ありがとうございます。これで救われます。」アナカラのその言葉を最後に私は家路についた。帰りの車の中で、「愛と絆」「愛と絆」「愛と絆」頭の中でリスレインした。「あ~それが「アロハ」なんだ」突然その思いが込み上げてきた。自分の過去、他人の過去、自分の痛みだけでなく他人の痛みも自分に編み込む。そうすることで見えてくる。自分の命の神秘、奇跡を。
私はその訪問後、アナカラグレンの学校の卒業論文として、論文ではないが短歌を提出した。
「ワイァナエの山のふもとの小学校 みんなでアロハと山にあいさつ」
7世代先の子供たちの姿を思ってーーー
(終)
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あとがき
長い文章に付き合ってくださり、ありがとうございました。この取材をするにあたり、アナカラは、「文字は時として毒になる」から気をつけてほしいと、優しくそして厳しくご指摘くださりました。最初は、「じゃあなんで、私なんかに喋ってしまうんだろう」と不思議に思いましたが、やりとりさせていただく間、彼らの置かれた状況が手に取る様にわかり、その言葉の意味がわかる様になりました。なんども文中に出てきましたが、彼は「ほっとけない」のです。例えばハワイの大学で使われてる歴史や言葉。ハワイの歴史というのは、その地理条件から、様々な一族が絡みあってできているのに、あたかも一つであるかの様に、カメハメハ系のご家族の話だけを取り上げている。余談になりますが、日本でも大ブレークしたディズニーの映画「モアナ」あの映画を作る際に、まずはハワイに相談があったそうなんですが、あまりにも混乱しているハワイ歴史情報に手をつけられず、基本トンガの歴史を取り上げることにしたそうです。力あるものが「都合の良い様に」解釈し広めてしまう世の中。宗教自体もそうです。一つ一つの宗教を見るととても素晴らしい要素があるのに、ある人の都合の良い解釈で広まるがために、人の暮らしを楽にするのが宗教の種であるはずなのが、争いを招く種になり「宗教戦争」は絶えないわけで。。。いやあ、それにしても今回は学びましたね。「事実は曲げてしまってはならぬもの」と気づき、日本語で文章を作り、英文に立ち上げてみてもらうという作業。半端なく集中力を要した。教訓。インターネットの無料翻訳は役に立たない(笑)最後に気持ちを短歌に込めてみました。気持ちを短歌にしてみました。
「文字のないハワイ文化を文字にする混乱の世に静かに反乱」コーヘン恵美子
詳細そして感想を直接アナカラへ Glen Kila makakila@gmail.com
記事: エミコ•コーヘン
ノースショアの宿(ハワイラブカード加盟店)
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You tube「英語の勉強しよう!」https://youtu.be/2MlQIl2N3dI
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