前回から始まっているWAIKIKI歴史探訪。
今回は2回目。カラカウア王の銅像を訪問した後にダイアモンドヘッドに向かって行くと出てくるカイウラニ王妃の銅像。今回はその王妃のお話をさせていただきます。聞いていただくこのお話は、ネイティヴハワイアンが営むツアーの通訳として個人的に渡された資料と、過去に私が勉強したこと、さらにそこに、個人的な意見をふりかけのごとくふりかけてまとめたものです。他にはないわかりやすく楽しい記事になることを願い、始めます。。。
では、お楽しみくださいませ。
その2、カイウラニ王妃。
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
銅像の場所: 150Kaʻiulani Ave, Honolulu, HI 96815
24時間観覧可
観覧費:無料
彼女は、 1875年10月16日 – 1899年5月6日)のハワイ王国の王女。
1875年にカラカウア王の妹であるリケリケ王女を母に、スコットランド人アーチボルド・クレグホーンを父として生まれ、生後すぐにカラカウア家へ養女に出されました。
早くから王家の次世代後継者と目されて、国民にも人気の高い方でした。
旅立つ友よ
島の少女よ島の薔薇よ
明るき光の明るき顔よ
二つの国の血を引く娘よ
君の島は南の太陽の中にあるのに
カイウラニは行ってしまう
君が好きだった
バニアンツリーの影で
僕は悲しみにくれる
遠きスコット島の
きらびやかな空虚を
優しい眼差しの嵐で
吹き飛ばしておくれ
幼馴染だったロバート・ルイス・ステゥーブンが残したこの詩を読むと、どんなかただったのか、想像がつきますよね。これだけ誰かに愛される女性。きっとハワイが私たちの心にいつまでも残る様に、彼女自身もハワイの様。いつまでも心に残る不思議な魅力を持った人だったんでしょう。
その彼女がハワイを離れなければならなかった理由は、やはり時代の流れにあります。
彼女の母親は、ミリアム・リケリケ。カラカウア王とリリウオカラ二女王の兄弟関係にある女性です。父親はアーチバルト・クレグホーン、オアフ島の知事を務めた白人。スコットランドからやってきたビジネスマンの子。思いっきり王家の血筋を引きながらも、王国を苦しめていたビジネスマンの血も半分引いているわけです。まとめ役になるべく、幼少の頃にハワイの文化をたっぷり学び、西洋の文化を勉強するためにイギリスに渡りました。
自分が背負うミッションをきっと彼女は感じていたんでしょう。見るもの聞くものをどんどん吸収し、、フランス語、ドイツ語、スコットランド語、タヒチ語を習得しました。王妃がハワイを離れている間にハワイはビジネスマンたちに乗っ取られてしまいました。彼女の叔母さんに当たるリリウオカラ二王妃を拉致されたのを聞いた王妃は、18歳の若さにも関わらず、ワシントンDCに渡りクリーブランド大統領に相談を持ちかけました。王妃の熱烈な思いに打たれたかクリーブランド大統領はハワイをバックアップすることを約束したものの、大統領自体の任期が終わってしまい、次に大統領の位置についたウィリアム・マッキンリーは、スペイン戦争での勝利を考えるばかりにすでに近づいていたハワイとの関係をそのまま利用して自分の国にしてしまいました。
王妃の行いが裏目に出た様な結果を聞いた王妃はサンフランシスコの新聞に悔しい思いをぶつけられました。
「合併のニュースを耳にした時、最悪と思う以上に「死」を感じました。自分の冠を奪われ悔しさよりも、ハワイの旗が下されたことに絶望しています。」
希望のともしびが消えた時に人は弱るのでしょうか? 国を背負って国のために生きてきた彼女は、ハワイ王国がなくなったすぐ後、風邪をこじらせ、若くして亡くなられました。
しかし、このジャンゴーデンフィッシャーマンの手で掘られた銅像を観ていると、お優しい王妃の心は今でもハワイに向いていらっしゃる様な気がしてなりません。
大好きな孔雀たちに囲まれ、カイラニの名前の意味である天の頂きから見守っていている。。。。
PS 彼女の人生をモチーフにした映画は、その時の状況をうまく現しています。
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次回は、ワイキキビーチを見て右側にあるポリスステーションの横。大きな4つの岩です。
では次回をお楽しみに!
アロハ!
記事: エミコ•コーヘン
ノースショアの宿(ハワイラブカード加盟店)
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