CULTURE

WAIKIKI歴史探訪[その5]
プリンスクヒオ

ブログ142KUHIO

前回の停車場はデュークの銅像でした。

世界中の人という人にアロハをシェアし続けた人デュークの生き様、心を打たれましたよね。
今回、訪れる人物は、王様ではなく王子だったので、あまり語られていませんが、変化する世の中に屈折せず生きたハワイの誇れる人物です。

プリンスクヒオ

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本名は、ジョナ·クヒオ·カラ二アナ·オレ。カウアイ島でデービッド カヴァーナナコア王子の弟として生まれました。
どちらも後に紹介するカピオラニ女王の甥にあたります。

クヒオの名前の意味は、地に足をつけ前に進む人。そしてカラニアナは野心を持つ皇族。

彼の父は、ジョナア·ピイコイ母親は、ケカウリケ王妃、リリウオカラニとは姉妹関係にある人です。

クヒオと彼の兄弟たちは、カラカウア王とカピオラニ女王の養子に取られ、イオラニ宮殿で一緒に暮らしました。そして1883年。王子の冠をカラカウア王から与えられ、正式にハワイアン王の跡取りに任命されたのです。

後に王様になるはずの彼は、当時、最高の教育を受けました。通ったイオラニ学校では、「天使のような顔立ち」と形容され、それが今でも「天使の王子」という呼ばれる由縁です。またプナホウスクールでも勉学を取られました。勉学がお好きだった王子は、その後の4年間、セントマシュースクールとサンマテオにあるイピィスカパァル軍事学校で学ばれ、その後の2年間は、日本の学習院で、イギリス皇族の通う農業学校でも勉学を取られました。22歳の王子の学力は相当なものだったと言われています。特に語学力に優れていて、フランス語、ラテン語、日本語も話すことが出来たそうです。

自体が急変したのは、ハワイの国自体がなくなってしまったこと。1985年、ハワイ王国が乗っ取られた後、彼は反乱軍の活動に参加し、刑罰を受けることになったのです!

でも、どんな苦しい状況でも希望を失わずにいれば光は射してくれるものなんですね。

王子は、監獄の中で将来の妻となる人、エリザベス·カハナに出会われ、釈放されたすぐ後に結婚されました。

釈放された後も混乱の世は続きました。そんな中でハワイにいては危険。クヒオ王子は、ヨーロッパへ亡命しました。1899年から1902年、イギリス軍のキャプテンを務めサウスアフリカのボーアたちと戦いました。しかし、自ら戦いになられた王子だというのに、土色の肌を持つということから、差別を受け続けたのです。

モントリオールにバケーションで渡った際、たまたま立ち寄られた床屋で一緒になったアメリカ観光客に二で始まる黒人を卑下する言葉を吐かれ、その観光客を殴りかかりました。刑罰を受けずに終わりませんでした。が、この様な事件が王子の身に降りかかったことは、人種差別にはとても敏感な皇族にとっては、非常に不快な出来事でした。

王子がハワイの土地から離れている間にハワイはアメリカの植民地になりました。

ボーア戦争が終わった後に帰国した王子は新政府の政治に参加する様に勧められました。最初は、ネイティブハワイアンたちにホームルールパーティーと呼ばれる政党に参加しましたが、正しい方向に向かっていない政党に不満を感じ、行き先の方向を変えようと模索していました。

後に残る話によるとリリウオカラニ女王とクヒオ王妃は何か新しい形で政治に関われないかと、計画をしていたそうです。

そこでクヒオ王子の兄、デービッド カヴァーナナコアは民主党の会長として活躍していていたので、女王は彼に共和党に入る様にと指示しました。理由はアメリカは2つの政党があり、ネイティブハワイアンが両方の政党に籍を置いておけば、意見を言うことができると、思ったから。その意見を聞き、クヒオはテディールーズベルトが率いる共和党に籍を置きました。

1903年、彼は、アメリカの議員の一人に選ばれ10回連続でその後も選挙で当選を果たし、ハワイの皇族から出た初めての政治家として歴史に名前を残したのです。

議員として彼は、労働者クラスや、ネイティブハワイアン、ネイティブハワイアン、アフリカンアメリカン、女性と子供達の、立場が認められる様にと改革への努力をおこたわりませんでした。また軍用地として使われるハワイへの報酬がきちんとハワイに流れる様に、整えました。最も偉大な功績は宙ぶらりんになっていたハワイの土地活用の法律をあらためたこと。ハワイアンの土地がビジネスマンの手にどんどん渡っていくと言う状況に歯止めをかけるため、ネイティブを守るために作られたものでした。(残念なことに、未だに解決していない問題です)

ハワイの伝統や文化の保存にも力を入れた王子。ネイティヴハワイアンたちから「人のための王子様」と呼ばれました。

政治家の領域を超えたところ、ボクサーでもありサーファーでもあり、カヌーパドラーというところでも、才能を発揮されていた彼がもし王国がなくならず王様になっていたらと考えると、また違った楽園が出来ていたのかもしれません。

運命とかタイミングとかの絡みって、本当にあるんだなと思いますね。改めて良い時代に生まれたことに感謝したい気持ちになりました。

銅像は、ネイティブハワイアンのショーン·ブラウンが制作したもの。すでに見てきた銅像、カラカウア王の銅像を作った人です。

では、次の目的地に進んで行きましょう!

記事: エミコ•コーヘン
ノースショアの宿(ハワイラブカード加盟店)
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